歴女倶楽部&コッ地会 合同部室3

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求む! 部員!!

このトピでは、歴史と文化人類学、地学、天文等とそれらにまつわる妄想をも語ります。
ひと語りもの語り、興味の向くまま右往左往。読みオンリー、書き逃げOKラジャ~で、ゆるゆると進めて参りましょう。
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今夜からNHK-Eテレにて『3ヶ月でマスターする世界史』21時30分~が始まります。

☆本日の読売新聞のラテ欄からの紹介文。☆

「古代から現代まで、新しい視点から「歴史のつながり」」に迫るシリーズ。第1回は、メロポタミアなど古代文明の誕生と発展に、遊牧民の存在がいかに欠かせなかったかを見ていく。文明の発展に遊牧民が果たした大きな役割とは。」

です。
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地学は皆目分かりませんが、玄武岩の柱状節理です。
兵庫県北部、豊岡市の玄武洞公園に行きました。「玄武岩」の由来はこの玄武洞だそうです。
ゲンブドウ行く?と言われて煎餅屋さんかと思ったら岩山で、足腰ガクガクでしたがなかなか見応えありました。

山陰側に来たのはめちゃめちゃ久しぶりです。
玄武洞がつとに知られるけれど、他に青龍洞、白虎洞、南北の朱雀洞と四神の名前が揃っております☆

https://genbudo-park.jp/about/map/
全部回りましたよ、意外とコンパクトでした。
東西南北を守る四神の、北朱雀ってどないやねん?となりました。
(゚∀゚)キャハハハハハハ、ほんとね!

玄武洞といえば、しゃべる初のゆるきゃら玄さんを思い出したわ。
現地で玄さん見た時、淡路のいぶし瓦の銀さんと間違えてしまいましたm(_ _)m
玄さんの顔出しパネルもやりましたよ!

よくよく思い出したら、上の写真は玄武洞ではなく白虎洞でした。全部引っくるめて玄武洞公園ってことでご容赦ください(*ノω・*)テヘ
旅行楽しんでね!
いいな、玄さんの顔出しパネル♡
ありがとうございます。
台風到来が後ろにずれて快晴の中、無事に帰宅いたしました。
ずーっと県内ですが、縦に長いので色々全然違います。円山川が流れている向きが逆!何故なら海が北側にあるから!!分水嶺がどうとか頭では当然理解していても、南に海の見える生活をずーっとしている身には感覚的にモゾモゾします。思い返すと小中高大と南に瀬戸内海(明石浦、播磨灘含む)が見える校歌です。猛暑すぎて、気候の違いは分かりませんでした。ずっと北にあるけど、豊岡市なんて先日は県内観測史上最高気温になってて、確かに恐ろしく暑かったです。冬もこっちよりめちゃめちゃ寒いのに、夏も暑いだなんてお疲れ様です…と思いました。

あちらこちらで収穫間近の稲穂たちが、もうすぐだから待っててくだされと頭を垂れていました。
どうぞ台風に耐えてくだされ、とこちらもペコリ。
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歴史オンチがまた来ましたよ。
明石駅前での用事の空き時間に、ふと思い立って明石城の横にある「明石市文化博物館」に行ってきました。写真は、博物館横より明石海峡大橋と天文科学館を臨む、です。天気は今ひとつ。
博物館としての規模は小さいですが、アカシゾウの化石や播州の祭りの布団太鼓(太鼓ではなく山車)の展示があります。毎秋、市内の幼小中の図画工作の作品展みたいなのがあり、うちの子らも何度か展示してもらえて、その時に行ったきり何年ぶりでした。
特別展示『明石の寺院跡』をやっていて、でもこぢんまりとした展示室には私以外誰もいない…と思ったらスタッフのオジサンがスタスタとやって来てそのままプライベート解説ツアーに突入( ゚д゚)ポカーン
え…いや…どうせよく分からないんで放っておいて…と戸惑いましたが、意外と我が家の近所、よく通る場所に秀吉ゆかりの寺があったようで、ああ、そういえば、昔ここ発掘してたな…と思い出しました。分からないなりに質問もして、「あそこの住職さんは…」「ああ、あの人ね」と地元民同士だからこその細かな解説が分かる部分もあって思いがけない収穫でした。出土した土製の螺髪がソフトクリームみたいで…(*´艸`*)
コストコ神戸倉庫に近いお寺についても展示がありました。明石からの巡礼の道があるのです。
久々にこのトピを上げます。

ここのところAIと歴史談義していて、最初は李氏朝鮮時代の後宮の嬪号の決め方から始まり、彼女たちの諱(いみな)の話になり⋯最後の王女と言われた徳恵翁主の写真で少女期と成人後の写真が別人のように見えるねという話から、ふと有吉佐和子著『和宮様御留』みたいに何処かで別人と入れ替わっていたりして、という話に至りました。

さて有吉佐和子女史はなぜ皇女和宮が将軍家への降嫁にあたり入れ替わったという発想が出たんだろうねという疑問から、群馬県太田市にあった縁切寺で尼寺の満徳寺でのエピソードになりました。有吉佐和子女史が寺跡(明治5年に廃寺)を訪ねた際に、歴代の住職の墓が境内に揃う中、第10世住職で有栖川宮家の臣下の家門出身の鏡誉本清尼(住職在任期間天保元年〜天保13年)の墓だけが無い事に気付いて驚いたといいます。この事が和宮の入れ替わりの着想のひとつになったのではと。果たして小説の中で本物の和宮はこの満徳寺へ逃げ身を隠した設定になっています。

お寺の史料には歴代の住職の没年の情報があるのに、この本清尼だけは没年が不詳となっていて謎なのです。厳密に言えば和宮の生年は弘化3年(1846年)で、本清尼が住職を退任した天保13年は1842年なので、本清尼が和宮の世をしのぶ姿だったとするには齟齬があるのですが、和宮が婚約していたお相手が有栖川宮熾仁親王で奇しくもその宮家と縁の住職であった本清尼のみ墓がないという事で、なんとも歴史ロマンを駆り立てられます。

そこから本清尼の住職退任後の消息を、AIと考えて仮説をいくつか立ててみました。

☆本清尼は有栖川宮家に仕える中川家に縁のある女性だった。

☆徳川家と深い関係を持つ満徳寺の住職を務めていた。

☆退任後に江戸へ移り、そこで暮らしていた可能性がある。

☆その後、和宮が降嫁する際に、皇女の生活や江戸での暮らしについて助言できる立場にあったのでは。

この仮説を証明するに史料をWEB上でAIに調べてもらっているうちに、なぁんと、奇しくもこのタイミングで謎の舞台となった群馬県太田市の満徳寺の復元本堂にて、江戸時代の関東の尼寺を研究している方の講演が、来月あるそうな。近くだったら応募して聞きに行きたいのになぁ。

☆江戸城大奥へ通った尼僧-満徳寺住職本栴(ほんせん)の活動-(縁切寺満徳寺資料館)☆

2026年11月22日13時30分〜15時00分
申込みは10月21日から

https://www.city.ota.gunma.jp/page/1062771.html

『和宮様御留』のインスパイアの元になった10世ではなく、一代前の第9世住職のお話だそうで、苦境に陥った寺を復興するために奔走するにあたり、徳川家や大名家の女性たちと交流を持ったとあるので、わたしの仮説もあながち大きく外れていないのではないかと(笑)。消えた住職のその後の消息が気になります。

もしご興味を持たれた方がいらしたら、と講演の告知を貼っておきます。
ちなみにわたしにとっての『和宮様御留』は、お恥ずかしながら小説ではなく大竹しのぶ女史主演のドラマ(1981年正月放送)が子供ごころに鮮烈で、お屋敷で水くみしながら「コンコンチキチン コンチキチン」と祇園祭のお囃子を楽しげに歌っている冒頭シーンと、物語のクライマックスで変わり果てた姿になりながら歌う「コンコンチキチン コンチキチン」の対比の演技に胸を打たれました。

後年、成人してから祇園祭のお囃子を聞いたら本当に「コンコンチキチン コンチキチン」だった(笑)。

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