歴女倶楽部&コッ地会 合同部室3

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求む! 部員!!

このトピでは、歴史と文化人類学、地学、天文等とそれらにまつわる妄想をも語ります。
ひと語りもの語り、興味の向くまま右往左往。読みオンリー、書き逃げOKラジャ~で、ゆるゆると進めて参りましょう。
返信 321-360/361件最新の投稿へ
もうすでにご体験済みでしたのね、これは失礼しました_(._.)_。大倉陶園も傘下なのですね。
わたしの地方からはノリタケを含むツアーがあります。一度行ってみたいと思いながら幾星霜です。
阪急うめだ本店の建て替えが正式に終了して
開店した時 上の方の階にオールドノリタケ
のお店があって たまに見学にいっていて
それで ノリタケの森に行ってみたんです。
でも いつの間にか阪急のお店はなくなってました。

ハロッズもなくなりましたね。
寺内町が興味深いです。浄土真宗のお寺を中心に周りを堀や土塁で囲って自治していた町ですよね。あ、だからプチ堺なのか、納得。わたしは奈良の今井という所を観光した事があります。

浄土真宗の御堂は特徴的に屋根が大きくて大きなお家って感じがします。

今でこそお寺は平和の象徴のイメージだけど、中世~戦国にかけては僧兵と呼ぶ兵を抱えた一種の軍隊的な組織の側面があった訳で、その他、政治から取りこぼされた民の福祉を担っていたり、仏教を通じ大陸の文化や技術を持ち、布教の名で全国の情報収集活動もお手のものの集団でもあったからこそ、信長や秀吉からも目の敵にされ比叡山も石山本願寺も焼き払われた。

家康から出奔したままの武将がいた一方で、一揆の時の首謀だった空誓や本多正信が最後は家康のブレーンになっているのが歴史の面白いところです。
実際の三河七ヶ寺の本證寺には、土塁が残っているそうです。戦国時代からあったものかどうかは確証がないそうですけども、戦国時代でなければ土塁はいらんやろ、って言う状況証拠みたいなもんですかね。
お堀も結構深くて4mくらい掘ってあったそうです。難攻不落や…

当時の寺や寺内町は、高い学問と最新の情報と技術、商品までが集結してる一大拠点だからねー。AppleとかGoogleとAmazonがいるようなもんだよね。門徒にならんと使えないけど。三河平定目指す家康は、よくてガラケー、てことかもね。
家康の元でブレーンとなったのは、何より他の一揆の始末とは違い、命までは取らなかったからじゃないかな?
空誓は蓮如の直系だから殺めたらそれこそ収拾がつかなかったかもしれないし、本多氏は見方に残った家があるからこれも処分が難しかったかもしれない。

彼らが生き残ったのは知恵も人徳もあったからなのか、フレキシブルな思考の人だったのか、家康が寛容だったのか人を見る目があったのか、両者ともにいろんな側面の複合体なのか単なる偶然の産物なのか、今となっては妄想するしかないけれど、そこを妄想するのが楽しいのよね~。
結局その後、信長に帰順した顕如系は秀吉によって再興が許され(西本願寺)、
さらにそののちに、最後まで抵抗していた教如系に家康が土地を与えて再興させたのが東本願寺、、、
互いに反目しあってる同士を噛み合わせることで、石山本願寺の時みたいな一大勢力にならないようにしたのではないか?という話も。

家康としても、実の叔母だか伯母だかが門徒で、しかも頑として改宗しなかったらしいですからね…。それを考えると、信長みたいに一向宗だからって撫で切りにするわけにもいかなかったかも。これ以上、家臣や親戚が離反したらどうしようもなかっただろうし。

本多正信は、いったん離れて外に出たからこそ、俯瞰でものを見るようになったのではないかな。東西の噛み合わせを考えたのは正信らしいから、教団内での勢力争いやら反目しあう空気感に嫌気も差していたんじゃないかと。
単に切り捨てて終わらないで活用するところが家康の度量なのかしら。

仏教の教えだと為政者が出来ないメンタルケアができるのよね。この世では例え苦しい生活でも、南無阿弥陀仏と唱えれば老若男女が極楽往生できると言われれば民もすがりたくもなろうというもの。そこ、強しだわ。
やっぱ三河の後も、各地の一揆勢の様子とか、信長が長島や石山本願寺にさんざん手を焼いたのを見ているじゃない?
しぶとくて、死を恐れないから強いしたち悪い。これはまともにぶつかって潰していたら、時間も労力も半端なくかかる。だからうまくチカラを利用する手はないものかと考えていたんじゃないかな。
雨で高校野球が順延になり、代わりにやってた番組。内容が気になりつつもアレコレ作業しなきゃなんなくて、あんまりちゃんと見られなかった…
簡単に言うと、さまざまな災害は関連しているのだという話。例えば、台風と地震。

台風が来て気圧が下がる→わずかながら地殻が浮き上がる→微細なヒビが入る→雨が染み込む→ヒビの拡大・蓄積→地震が起きる

高潮とかあるわけだから、良く考えたら地表にも影響全くないわけないよな…

恐ろしいことに、南極大陸の氷の下には巨大な火山があるとわかったらしい。もし噴火して南極の氷が溶けたら、50m海水面が上昇する…コワ!
>死を恐れないから…

↑最強ですよね。
信長や秀吉って本願寺の他にもお寺を叩いていたよね、と思い出したら和歌山の根来衆や地侍の集合体の雑賀衆(ややこしい事に本願寺派を支援した側面あるらしい)とも複数回やりあってますね。
そういえば南大阪出身の学友が地元のお寺の由緒書きにはたいてい信長か秀吉に焼き払われて、その後、多くは秀頼に再建されていると書いてあると言っていたのが甦ります。

そういうのをずっと見ていたのが家康なんですね。
ぶつかるより手懐けるが得策と、骨身に染みたんだろうなぁ。

宗派同士を噛み合わせて、不満を幕府に向けさせない方策を考えたのでしょうね。
京や大阪では、交渉するにもさせるにも、寺社勢力は無視できないから、お互い利用していく方向性を選択したのでしょう。

寺が媒介となって、江戸時代の識字率が上がったりしたのかもよ。
>寺が媒介となって、江戸時代の識字率が上がったりしたのかもよ。

まさに読み書きそろばんの寺子屋ですね。

今朝のY新聞朝刊に親鸞聖人誕生850年、立教開宗800年の慶讃法要を記念して、西本願寺門主と東本願寺門首による80年ぶりの対談が掲載されておりました。

宗祖はご存知の通り親鸞で、11代顕如の時代に起きた信長との石山合戦(1570年~1580年)の講和を巡り、顕如と教如(顕如の長男)の対立が教団分裂の最初のきっかけとの事。

その後紆余曲折を経て、秀吉により寺領にて准如による西本願寺が、家康による寺領で教如の東本願寺が建てられたと、頭の中が整理されました。
東西本願寺の成り立ちを、先日の「家康と一向一揆」で学んだとこです。

秀吉の西、家康の東、って話は、少し前にお寺で聞いていたんだけど、系統はよく分かってなかったのね。
背景から順に知ることができたから、興味が膨らみましたよー。
わたしもこの記事で改めてそうなのかと整理できました。
教如、准如の母であり顕如の正室である如春尼という人は、武田信玄の正室・三条の方と姉妹なんだって。

教如は信長に楯突いた事で秀吉にも警戒されていて、一度は教如が顕如の後をとるも母の如春尼による秀吉への直訴で覆り、弟の准如に跡目を渡した経緯があったから、教如自らが家康を頼ったのかもしれないですね。家康は家康で自身のいろんな思惑があったでしょうし。両者合致して寺領を賜ったのかしらね。
織田包囲網は、石山本願寺と武田信玄のつながりあってこそだからねぇ〜。

松平氏のルーツ松平郷から、そのころ武田に従っていた足助郷って、かなり近いんです。足助から川を下ると、松平郷と岩津(松平氏本家の地)経由ですぐ岡崎、そんで下流域に三河七ヶ寺の上宮寺、本證寺の寺内町。
現在の感覚で考えるよりも、武田と三河七ヶ寺の連絡は容易なんじゃないかな。
当然、家康としては、つながられたら困るんだから、早い段階で家来や坊主を追放したんだと思う…
お天気がイマイチだったので
桶狭間公園と有松をちょっとあるいて
新栄の方でお茶しました。
当時は人力馬力より一度に多く早く動けるのは水運しかなかったろうし。クワバラクワバラ…と家康が言ったかどうかはわからんけど。
本日のBS「英雄たちの選択」は、松平氏!
松平氏のキーマンである家康の祖父さんについても分かると思われます。なぜ家康が人質生活をしなきゃならんかったか…。いやもうエピソードだらけで選択に事欠かない(?)気がするんだけどもね…
…つーか絡んでくるかどうか分からんけども、家康の祖父さんと於大の方のお母さん(つまり母方の祖母さん)は、なかなか強烈な方々なんで…

「どうする家康」ご覧の方にはおすすめします。私はリアルタイム視聴&録画が多分ムリなんで、再放送の録画を狙っております。
先日新聞を読んでいたら、今年で明治維新~終戦の近代(77年間)より、終戦後~令和5年の現代(78年間)の方が長くなったとの事。学校教育では明治維新~大正デモクラシーあたりまでで時間切れで、近現代、特に戦争に至り敗戦するまでは受験対策で自習するのみ。近現代から時代を遡って勉強してもよいのではないかと思う今日この頃。
それで、近現代の日本史と世界史を融合させた「歴史総合」という新しい科目ができたらしいけど、どのくらい広がってるんでしょうね。
これまでの「日本史A」と「日本史B」は、学力で選択されてた部分が大きかったようですが。
大学受験が変わらないと、そこら辺は変わらないだろうなあ。

私が高校生の時には、高1必修科目の日本史で黒船来航から第二次世界大戦までを学び、高3選択科目の日本史で古代からやりました。
でも、高3の時の先生は専門が古代史で、古代に力入れすぎて、結局室町前期で時間切れ。
戦国~江戸時代が苦手なまま残ったけど、専門分野を楽しげに語っていた先生の姿はその後の人生の指針になっています。
>私が高校生の時には、高1必修科目の日本史で黒船来航から第二次世界大戦までを学び、高3選択科目の日本史で古代からやりました。

↑個人的にはとても理想的デス♡ そして敗戦を学んだ最後にドキュメンタリー映画『東京裁判』(1983年)を見たらどうだろうかと思っています。

わたしの当時の社会科教師には全共闘世代がバリバリいて、今思うと社会科は全てにおいて反体制ぽかったな。当時の自分にはさっぱりわからんかったけど。その頃は侵略をシンコウだと表現していたわよ。まだ戦争に従事した人が現役だったからかな。大人になってから、人はそれぞれ思想や解釈があろう、だからこそ(当時の)わたしたち(生徒)各々が先の戦争をどうとらえるか、そのための材料(事実)を淡々と授業で示してくれぃ、と思いました。

今の社会科は受験のためにあるようなもんなんだね。教養としての教育を望みたいところだけど、限られた時間の中で進学実績も残さにゃならん訳で、あとは自分で生涯、粛々と学べってところでしょう。
埋もれていたのでアップします。
よいしょっ!

NHK『光る君へ』が放送中なので。今回、文化審議会が藤原道長直筆の「金峯山経塚出土紺紙金字経」を国宝に指定するように答申したそうです。
https://news.yahoo.co.jp/articles/9bb9c7f6cec8627e5b72518fb5833b2664e38022

道長の字は好きです。丁寧で素直な筆運びで癖も無く、横に平たい書体に親しみが湧きます。写経だから丁寧に書くのは当たり前ですけれど、感情の安定した人ではなかったのかなと妄想しています。書道を修練したゆえに字体と人柄が合致しないパターンがありますが、やはり直筆には書き手のなにかしらのエッセンスが反映されるのではと思っています。

これと同じような紺紙に金字で内親王が写経したものを博物館で見た事があります。それは本当に美しくたおやかで繊細で緻密な書体で、しばらく見とれました。お名前が思い出せないのが残念です。
このお経が入っていた経筒を京都国立博物館で見たことがあります。
https://www.kyohaku.go.jp/jp/learn/home/dictio/kouko/88kiniro/

道長自筆の日記『御堂関白記』も京都国立博物館の陽明文庫展で見ましたが、なんというか、個性的な字ですね。
お経はたぶん、一生懸命丁寧に書いたんだと思います(^_^;
九州国立博物館に巡回したときの紹介動画がありました。
https://www.youtube.com/watch?v=fefjvTmelnY
ご参考まで。
悪筆ではないと思いますし、女手のような優しさも感じられます。片や名筆とうたわれた藤原行成の筆跡は(大河ではそれこそ気弱でガツガツしたところのないキャラなのに)男性的な緻密さを感じたり。

当時はこの世の栄華を味わったであろう道長も、その反動が悪く出ないように、こんなに財と時間と労力をつぎ込んで写経し金峯山に埋めるほど信仰深かったのですね。
臨終の際には阿弥陀仏の手に結んだ糸を握ってたってのは、当時の貴族あるあるじゃなかったかな…息子が平等院建てたのを考えると、いかに(寺や僧侶に)功徳を積むかってのが極楽へのパスポートやと思われていたんでしょうね。政治とは関係なく。
数日前の新聞記事で読んでました。
新聞は白黒掲載だったけれどネット記事だとカラーで見れるんですね!
金字がちゃんと残っていて驚きました。
字から人となりを想像するのもなかなか楽しい(⁠☆⁠▽⁠☆⁠)
平安時代はあまりにも遠く非現実的のように感じますが、こうして脈々と人の世が続いているのですね。
平安時代はご指摘の通り、極楽往生、極楽浄土思想が貴族の中で主流となり、特に権世を誇った者こそ今生での栄華を来世でも、あるいはその栄華を誇る陰に涙を飲んだ者たちの怨念や穢れから逃れて極楽へ往生できるよう望んだのでしょうかね。道長が執筆した『御堂関白記』の御堂は、道長が一族の回向のために建てた御堂が元になっていると言いますものね。そうした仏教に帰依した一方で、今の祇園祭に相当する行事は阻止しようとしたり。この頃の為政者の宗教観が興味深いです。


>ぴゅうこ さん

そうなのよ、単に千年前の人と言われても靄がかかって親近感が湧かないけど、直筆を見るといろいろ感じるものがあります。実在していたんだ~とぐっと近しく感じますね。千年経ってもへたれない和紙や金泥の質の高さにも驚きます。
これは願を掛けた写経なので道長も一生懸命に丁寧に書いたのでしょう、一方で日記の方は誤字や当て字、書ききれない事は枠からはみ出してまで書いてあるらしいので、もっと人間味を感じられるでしょう。直に見てみたいです。
為政者というよりは、僧侶の仏教観ということかもね。
基本的に仏教は国家安寧のためのものだから、貴族のためには動いても庶民のためのものではなかったし。
貴族の子息や皇族たちが寺院に入っている時点で、大多数の僧侶の視線は貴族に向いていたろうね。お金も流れるし。

祭りをするしないは、どこの家が名を上げて名誉を得るか、上げられずに屈服するかみたいなところだからなぁ〜。
ぐふふ、平安時代は藤原姓ばかりだから誰が何でどうしたのやら、頭がこんがらがっててんで覚えられません、道長の長男が平等院を建てたんだ、ありゃ極楽浄土の3D化だものね。

なるほど、祭祀も権力争いの一環なのね。
まさしく源氏物語にも描かれているように、誰が何を取り仕切って、どんだけ目を引いて見事に収めるかみたいな争いなんじゃない?

神事としての奉納舞の類は、神様が喜ぶ美しさと型が求められるわけだし。格式と名誉こそ貴族の矜持を支えるものでしょうから。
歴史オンチがお邪魔いたしますm(_ _)m

https://trilltrill.jp/articles/3499579
これ、ちょっと面白かったので、陰陽師好きの先生方にも受けるかなーと思い持参しました。
こういう冗談が巡り巡ってガチの「伝説」になっちゃうこともあるのかも知れないなーなんて思いました。
く○寿司の中の人に陰陽師がおるのやも…なんちゃって。その真ん中の五角形の中心には何があるのかな。気になる。

ところでこのXの人のつぶやきがおもしろ過ぎて読み込みました。
くら寿司の「くら」は神聖なものを奉納した特別な蔵を意味しているのです…
なんとなく『ダヴィンチコード』的な世界観で(笑)

ちゃんと真面目な研究もしつつ、「つかみ」としてこういう冗談も考えつく人ってすごいと思います。
民俗学系研究のお人なのかしらね。D志社入試問題に著作物が使われたほどの。
五芒星が崩れるから、新店舗出店できない。。。
岩倉エリアにこないだ京都北山店がオープンしたけど、あれは洛外だから結界の外かな。
岩倉←くらがつくからOK?
岩倉は、すなわち「磐座」で重要な祭祀施設なんだ!ってな解釈でいかがでしょうか?
五芒星からみて北東(丑寅)の方角だから、鬼門鎮めかも。
鬼門鎮めの磐座なんて完璧やん( ̄▽ ̄)

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